ボクはボクなりに自由に振舞ってきたし
ボクなりに生きてきたんだと思う
だけどだけど理由もなく
滅入った気分になるのはなぜだろう
思ってるコトとやってるコトの
違うコトへのいらだちだったのか
だからボクは自由さを取り戻そうと
自分を軽蔑して自分を追い込んで
なんだか自由になったように
いきがっていたのかも知れないんだ
まにあうかもしれない今なら
今の自分を捨てるのは今なんだ
間に合わせなくては今すぐ
陽気になれるだろう今なら
大切なのは思い切るコト
大切なのは捨て去るコト
そうすりゃ自由になれるなんて
思っているほど甘くはないけれど
だけど今は捨て去るコトで
少しくらいは良くなると思えるんだ
間に合うかもしれない今なら
間に合うかもしれない今すぐ
べんてんのお兄さんを卒業しても、ワタシのフォーク好きはあらたまりませんでした
なよなよした自分を荒々しく
荒々しい自分を本当に強く
そうなるためにはどうすればいいのか
どういう覚悟をしなければならないのか
それを最初に教えてくれたのは、お兄さんにもらったカセットテープから流れてくる「よしだたくろう」という若者のダミ声でした
あらためて目を閉じて歌詞をかみしめると、今もあいかわらずワタシのココロの中では効力発揮中なんだなぁと、自嘲気味に、ちょっとだけ誇らしく、口もとがニヤニヤ…
「ヒトは、望むと望まざるとにかかわらず、自分の意志で踏み出した最初の一歩に引きずられて、その後の人生を生きていく」そうですから、当たり前って言えば当たり前、なのかなぁ…^^
そして、それと同時に、捨て去ったモノの重さ、手にいれたモノのあまりの哀しさ、なんていうのに想いを千々に乱されちゃうのは、自分の覚悟の甘さと、そして長く生き過ぎたコトで背負ってしまったモノの多さのせいなんでしょうか…
修行が足りないね
☆この歌の使用上の注意☆
他人の言葉に踊らされて、その気になって何でもかんでも捨てちゃって、後で泣いても知らないょ♪(by 大人になった数十年後の吉田拓郎)
コメント
「まにあうかもしれない」は、学生の頃は何となく聞いていた記憶しかなくて、今改めて聞くと、こんなフレーズを若くしてポンポン吐いていた吉田拓郎の感性に乾杯!って感じやねぇ。天才ってそうなんだろうな。
>ビバ☆メヒコさま
たくろうが天才かどうか、あたしにはわかりません
むしろ、センスうんぬんよりも「きわめて利己的な実験主義者」なんだと思っています
自分のココロと身体で受け止めた実感を、「自分のためだけ」にコトバにし、「自分のためだけ」に曲をつけ、「自分のためだけ」に唄う
そうゆうヒトなんじゃないでしょうか
あのヒトの歌に埋め込まれた「我が身を敢えて鋭い刃にさらし、切り裂かれた傷口から滴る血潮を見つめながら、その痛みについて説明してる」みたいなひびきは、そうゆう実験主義からきていると思うんです
我が身を生贄とした実験主義…それはとても勇気のいる生きざまです
ソコに惹かれるんです
安易にヒトとつながるコトを良しとせず、ただ「自分のためだけ」その実感を歌というカタチで記述する
そのスタイルがスキなんだと思うんです
↓へ続く
あのヒトが、「あのヒトのためだけ」に唄った歌ですから、必ずしもその全てに共感できるわけではありません
でも聴く側のワタシたちは、その歌を勝手に解釈したり誤解したり錯覚したりして、あたかも彼に共感したような気分になったりするんです
生きるというコトの、なんとも言えないような虚無感や孤独感、寂寞感みたいのを、彼と共有できたような気になるんです
そうゆう、「独りでなんとか切り抜けてみよう」と足掻くヒトが、ワタシはスキです
安易に「さびしい」とクチにするコトを良しとしない生き方を選ぶヒトが、ワタシはスキです