番長ブルース 朋友への伝言 2009.12.08 「番長」を「オカマ」に置き換えるだけで、ちゃんと胸に響きます 「なぁにやってんだろ、あたし…」って、茫漠とした心境で夜空を見上げる時、この自虐的な歌はかなり重いですね <梅宮辰夫:番長ブルース>
コメント
確かに重い歌だなぁ。歌詞も凄いが、辰夫のビブラートはさらに凄い。重い気分の時に重い曲を聞いたら余計に沈まない?セルフ・エスティームを大切にしよう!
>ビバ☆メヒコさま
これって確か、軍歌の替え歌なんじゃなかったかな
むかしドリフのアルバムにも軍歌をチャカしたみたなのが一杯はいってて、その中におんなじフシ回しの歌があったと記憶しています
戦後になって、鑑別所に入ったワルガキどものあいだで、誰からとなくいつの間にか歌われるようになった歌だったんじゃないのかな
コレのレコードが時々オークションに出てるんですけど、作詞者不明ってなってたと思うし…
欠番の、四番の詩がきっと元歌だったのかもしれないですね
重い気分の時に気晴らしみたいな曲聞いても、逆にイラつくだけじゃないです?
弱音も泣き言も愚痴も呪詛も、歌というカタチに乗せるコトで、浄化された「別の何か」に転生させうるのかもしれないですよね
哀しかったり重苦しかったり絶望したりした時、ふっとクチから漏らすヘタレなセリフ…
クリエイターたちは、それらを絵や曲や詩といったカタチに紡ぐことで、精神的浄化をしているのかもしれませんね
「歌う」とか「言霊」とか「呪文」とかってゆうコトバは、そうゆう、作品の輪郭を繰り返しなぞって再確認するコトで、精神の浄化作用をもう一度呼び起こそうとするコトと結びついている気がします
ヒトが歌う理由は、なにも気分の発揚のためだけではなくて、歌うコトでココロに降り積もったネガティブな色の汚濁を洗い流そうとするため…という目的もあるんじゃないでしょうか
歌の大切な要素はメロディーと歌詞、そして声だろう。歌う立場と聞く立場、その違いで話が変わるので、ここは聞く立場で。
昔は歌詞に大きな意味を感じていたけれど、最近は「歌い手の声」が一番大きな癒しになっている。歌詞やメロディーは、どんな陳腐なものであれ、十回も聞けば慣れる。しかし、声は慣れない。最近、それをとみに思う。浜田省吾・沢田聖子・平松愛理・松田聖子諸々。ドリカムの歌は理性で素晴らしいと感じてはいるが、私は一日聞けない。声に飽きてしまう。
上記した好きな声の歌い手の歌は、環境音楽の様に、声さえ流れていればそれで良いという感じ。それが癒しになる。
言葉に対する希望や期待がなくなってるのかな。老化?言葉は、最近うっとおしく煩わしい。言葉を突き抜けた所に人間の本質があると思う様になった。文字も情報を得る手段でしかなくなってきた。美しい自然を文字に加工して、そのものが読み手に伝わるはずがない。短歌や俳句、詩。作り手の感性には驚愕しても、作品は鑑賞するしかないジレンマ。
寝起きで、妙なことを書いてしまいました。
>ビバ☆メヒコさま
オトコとオンナ、ヒトとヒト、真理と知識…それらの間に横たわっている、ギリギリ歩み寄れそうで、でも決して一つにはなれない薄皮一枚分の境界
クリエイターとクリエイトしたい対象、クリエイターと鑑賞者…それらの間にも、その境界は厳然と存在していますよね
詩であれ絵であれ、ヒトが作り出した不完全なツールや手法を用いて産み出したモノであるが故に、おのずと表現できる限界を有しているのでしょう
そういった限界の中で産み出されたモノであるが故に、それを観賞する側には、なお一層の薄皮が介在してしまう
そうゆうトコロから来るもどかしさってゆうのを、何事かを観賞するとき常に感じます
音とか声ってゆうモノは、そう考えるとヒトの手を経る工程が少ないものであるが故に、観賞するべき対象として自分の気分や心情にダイレクトなリンクをしやすいのかもしれませんね
なんてゆうんだろ、手触りとか感触とか、そうゆう皮膚感覚に直接訴えかけるのと同種の作用なんじゃないでしょうか
意味とかそうゆうモノを介在させなくても、自分の感覚器官というセンサーを直接刺激し、その刺激に脳が直接リアクトしてるカンジってゆうのかな
たとえば、「子造り」という大義名分では性器は決して反応しないが、粘膜の快感という刺激にはキチンと五感と脳が反応し快感を覚えるのと同義なのでしょう
そう考えてみると、声ってひどく生理的な嫌悪が露骨に顕れる素材なのかもしれませんね
モーツァルトも金管系の音(特にトランペット)の音の鳴り方をひどく嫌ったそうです
声の手触りとしてワタシの好みは、メンズだったらちょっとダミ声がかった低すぎない声がスキだな(加川良とか高田渡とか)
レディースだったら丸みのあるくぐもった声…ごく初期の谷山浩子とか1stルパンの不二子ちゃん役の二階堂有希子ちゃんとかがスキ
「音楽を聴く」という行為に何を求めているか…という点につきるのかも知れませんが、ワタシの現在のスタンスは音楽というモノを、まだ純粋に楽しんでいる行為ではないのだと思っています
ビバ☆メヒコさまのスタンスの方が、音楽を音楽として鑑賞するという点で、より至純な距離感を以って臨んでいらっしゃるのでしょう
ただ、コレはビバ☆メヒコさまもコメント冒頭でおっしゃっておられる様に「聴く立場」でのおはなし
「言葉」の表現者としても一流の感性をお持ちであるが故の、突き放した感覚なのではないでしょうか
「言葉の使い手」として、優れた表現者であるが故に、自らが用いる「言葉」というモノの有限性や限界ってゆうものも、日々痛感なさっていらっしゃるが故のお言葉だと拝察いたします
韻律とか平仄という言葉が詩歌の世界にはありますケド、きっと言葉には、文字と意味のほかに「言霊」を帯びさせるべき成分が、原初の黎明期には存在したのではないかと思うのです
それは韻律、平仄といった音の配列だけではなくて声明といった発声法にまで及んだのではないでしょうか
当て身や関節極め投げといった致命の技を排した柔道が、格闘術として今一歩なのと同様に、解析困難な成分を排して組み上げられた現代の言葉だからこそ、ツールとしての限界を感じやすいのかも知れません
渥美清の啖呵売、Youtubeあたりで見てみると、言葉の意味と無意味・韻律の巧みさ、聴く側との呼吸を一致させてゆく技術、結果として聴かせる側の真意を伝えていく技能…そんなモノが渾然一体となった、一種の音楽とも言えるモノを感じさせられますょ
あぁ、長かった^^;
長~~いお返事ありがとう。
歌詞を無視し、音のみに反応しがちな自分の最近の姿勢が、原始人に戻ってンじゃないかと少なからず心配してたのです。東南アジアで聖霊を呼び出す時、太鼓の音だけ使うって、水木しげるが言ってた様な記憶が。歌詞を受け入れられなくなっている自分に、ビィアフレイドオブミーしたんですが、少し安心しました。
オールナイトニッポン二部の谷山浩子の、年末忘年会を生で流すって企画があって、その宴会が盛り上がって、放送事故ぎりぎりの状態に陥った。その時の浩子のリスナーに助けを求める様な半泣きの声は、今も脳裏に焼き付いている。
声は楽器ですな。
>謹賀新年
やったぜ、サンデーコミック版「鬼姫」げと♪
いま読んでも泣いた
むしろ、あの頃よりも深く、慟哭と言ってもいいほどに泣いた
なんだ、これは…
高取城のお姫様だったっけ。確か持ってるぞ。
笑い仮面は落札ギリギリで横取りされちゃった{%顔モジヒヤッ(シェイク)hdeco%}
洗礼は落とせたんだケドなぁ…
鬼姫は10歳にも満たない頃、たった一回従兄弟の家で読んだきりなのに、ちゃんとディティールまで覚えてました
あの時もぼろぼろ泣いた覚えがあるケド、今回もやられたなぁ
挙措相貌だけではなく、心にまで変態するコトを強いられ続けた者が、失ってしまったモノと変わらずに維持し続けたモノ…
この、影となった娘は、鬼姫になるコトでしか生きる術もなく、愛しい存在を守る術もなく、にもかかわらずその結果、帰るべき安息地すら失ってしまう
許されたのは鬼姫として生き、鬼姫として死するコトのみ
その鬼となった娘が、抗い難い力にそれでも抗って守り抜いた、愛しい存在への想い
客体として観賞するよりは、幼稚ではあっても自分の在りように照らして読む方が、明らかに心の深いトコをざっくりと抉られますね
ワタシは一体何を失い、何を維持しているんだろうか…なんてね
ちなみにコレって元ネタがあるのかしら
高取城は奈良県にあるみたいだケド…
教えて、ネイティブのヒト{%一言・よろしくhdeco%}
蟻人間は恐ろしかったねぇ。あの当時の楳図先生の筆力は恐るべきものがある。肉玉とか。実在する五條病院が舞台だった。今なら×やろね。鬼姫は、元話があったと記憶してます。調べてみます。気長に待ってね。今、本棚が無茶苦茶なので、資料がすぐに出せません。高取城は石垣を残すのみですが現存します。司馬遼太郎の天誅組を扱った話(大砲何とかちゅう題名だったか)に出てくるぞ。