ヒトのコトバに真摯に耳を傾け、ソレを理解しようという姿勢の欠如したバカ者とコトバを交わすなどというコトは、人生におけるムダ以外のなにものでもない… 初代司法卿 江藤新平
人間は感情の動物だ
というか、おおよそ生物というモノは、五感というセンサーから脳にもたらされる刺激を、「快・不快」という2つの原始的知覚情報に分類し、自らの存在を維持するためにその情報を処理する
生後まもない乳児に「痛み」という刺激を与えれば、乳児の五感はその刺激を脳に伝達する
伝達された「痛み」の情報は、生存を脅かす情報であるから「不快」に分類される
「不快」と分類された情報は、自らの存在を維持するために「反応」という行動に投影される
その「反応」が感情だ
たとえば喜怒哀楽といった根源的感情は、自らの存在を維持するために発達した情報発信のメカニズムだ
喜び…笑顔や笑い声の発声によって、母親や支援者に対し「快感の持続を要請する」信号を発信する機能
怒り…しかめ面や粗暴な振る舞いをなすコトによって、刺激の発生源や自らの援助者に対して「不快な刺激をもたらす存在を遠ざけるコトを要請する」信号を発信する機能
哀しみ…涙を流したり泣き声をあげたり失禁したりするコトによって、不快な刺激を自力では除去するコトができず、その情報処理にオーバーフローをきたしてしまっているため「救援を要請する」信号を全周囲に向けて発信する機能
楽しみ…快感をもたらす刺激が持続的に供給されている状態にあり、自らが「愉悦にひたっている」という表情や仕草を周囲に示すコトによって、周囲に対して「何が自分にとっての快感であるか」という信号を発信し、自らの支援者に快感の源を暗示する機能
ヒトの場合、こんなカンジで親や援助者に対して、自らの存在維持を要請するのだろう
先の例で言えば、「痛み」という刺激に対して、乳児は「しかめ面」という怒りの感情と、「泣く」という哀しみの感情を表現するコトで、母親や援助者からの支援を要請し、不快の源を遠ざけようと試みる
成長にともなって、こういった喜怒哀楽を元にして更なる複雑な感情(嫉妬や代償など)を派生させ、複雑な人格を形成するに至るのだろう
ワタシはムシになったコトはないのであくまでも推測だけど、ムシなんかの場合は怒と楽しかないのではなかろうか
不快な情報には怒りをもって対処して(針で刺したりかみついたり)不快源を消去したり遠ざけたりし、快の情報には群がる様に接近を試み、悦びの分泌物を放出したりする
つまり接近と忌避の二元論で動作しているカンジで、そういう意味では極めてロジカルでデジタルな生き方なのかもしれない
「生きて、自らの存在を維持していく」という、生物としての根源的な原則から考えれば、ムシなんかのほうがよほどヒトなどよりも合理的で効率的だ
モンゴルの遊牧民の様に生き方にムダがない(あくまでもモンゴル遊牧民に対するイメージね モンゴル人には喜びや哀しみがないって言ってるんじゃないゎよw)
ただ、このデジタルな生き方を用いて、種の存続性をそれなりに維持できるようにやっていくためには、不快源に接する機会ができるだけ少なく快感が持続しやすい…それなりの広さをもった適地が必要で、それゆえ快・不快の信号を共有できる「同種同士による群生」や「なわばり示威行動」をなすモノが多いのではないか
これに対して、ムシよりは複雑な行動をするコトで生を存続させている生物に、人間は一種の親近感を覚えたりするコトがある
手に入れた食物を他に横取りされたり、恋の相手をめぐっての競い合いに敗れたモノの姿などというのを映像などで目にした時、当の本人(?)がどう感じているかはともかく、その様子に何ともいえぬ哀感を見てとったりするし、その代償行為のような所作に共感を覚えたりする
これは、その生物が感情だけではない何かによって、事態を処理しようとしているように映るからだ
たとえば、その種における群れの掟であったり、その種を維持存続するための儀式化された求愛行動であったりという、「感情を制御するための何らかの拘束」が存在しているコトに共感を覚えたりするのではないか
感情のまま生きるというコトは、場合によっては生命の危機を招きかねない
彼我の戦力差を認識しないまま、不快源に対して退去撤退を要求する「威嚇敵対行動」を示威すれば、それはすなわち戦闘状態を招来する可能性をいたずらに増やすばかりであり、彼我のいずれか、あるいは彼我ともども、その存在の維持が困難な状況に陥るコトに直結する
ハチやアリのような一種の群体というのは、個としての存在が群体の中の一機能(防衛や営巣や育児など)となることに埋没しているのであろうから、個体の死はさほどの意味をなさないのかもしれない
それゆえ、たとえその敵対者が近種のハチであろうと熊であろうと殺虫剤をもった人間であろうと、不快とあれば恐れを知らぬ蛮勇をもって「怒り」を発動するのだろう
種の存続を保障するためになら、群体を構成する個の生死は意味をなさない
否、そのためになら積極的に死に向かって突貫するコトこそが、生まれてきた意味なのだ
ドコかの国に、ちょっとむかし蔓延していた気運みたいで不快だ
彼我の戦力差を冷静に分析しないまま、感情や気分といったあいまいなものを鼓舞発揚するコトに躍起になり、その気分に水を差したり気分を共有しないモノの存在を許さない…これはムシだ
群体として発狂状態にある、始末におえないムシと一緒だ
不幸にして群体の中に産まれおちてしまったら、自らが生きていくためにも、その群体の狂気を共有できなければならない
あの頃のひとびとは、自らの産み落としたコドモですらムシ同様の存在におとしめて、親子ともども狂気の行軍を歩むという道を選んだ
女王バチが残れば、他はいくら死んだっていいのだ
それからすこし時間が経って、すこしアタマがひえて、すこし冷めた(あえて「醒めた」とは表記しない)ドコかの国のひとびとは、かつてのひとびとが犯した愚行を、他人ゴトのように冷笑できる
でも、ドコかの国のひとびとの遺伝的精神気質ってゆうのが、ソレを笑えるほどに進化陶冶されたとは思えない
その後の60年以上の時間の中で、群体としての発狂は様々なカタチで発露したではないか
あの失敗で学んだはずの、なんらかの精神的成長や進化や陶冶などというモノの発露が、いったいこれまでにあったであろうか
種としては、あいかわらずの種なのではないか
明治期、議会の開催を求める声に対して「この国の人間に民主主義はまだ早い」という言葉があった
「この国にきちんとした個人主義や民権意識というものが育たぬうちは本当の意味での民主主義など根付かぬ」… それは120年近く経った今も、相変わらずなのかもしれない
これからさきも、おんなじなのかもしれない… なぜならそれは遺伝的な精神気質だから
ドコかの国のヒトビトにロジックは不要だ
酒呑みが体質として日々の酒を欲するのと同じように、ドコかの国のヒトビトはその体質として「気分」や「雰囲気」を常に欲する
いつまで経ってもムシみたいだ
ワタシの父親は、この「ムシ」のような人間だった(まだ生きてるらしいケド、過去形のが舌に乗りやすい)
学がないとか、きちんとした生育環境に育たなかったとか、そういうコトはさっぴいたとしても、「ムシ」のように愚かな生物だった
このオトコには、ムシのように楽と怒でしか感情を表現する機能が備わっていないかの様で、それはまさしく太古の地球に生まれた原生生物のような、生きるコトに特化した生物だった
気に入らなければ暴れ狂い、心地よければ上機嫌で、「考え」とか「戦略」とか「思考を促すべき土台となる言葉や分析」といった一切の材料を持っていなかったし、おそらくだけれども「持つコトそれ自体を拒んでいる」ような、そういういきものだった
そのくせ、自分の気分を助長したり鼓舞発揚するような「他人の考えた言葉」を、右から左までいろいろ暗誦する機能を有していた
あのオトコが自らのクチで語る来歴から察すれば、それなりの苦労から生み出された「自分なりのコトバ」というものがありそうなものだが、あのオトコは一切のそういったものを他人様から借用することで代用していた
「考える」という機能そのものが欠如しているがために、自分以外の誰かが考えた言葉を身にまとうコトで、考えるコトの代用としていたのかもしれない
あるいは、「考える」という行為をしてしまうと何もかもがつらくなるような、そういう過酷な生育環境だったのかもしれない
考えてしまうとあまりに辛いがゆえに、「考える」という言語の裏づけを必要とする行為から徹底的に逃避していたのではなかろうか
幼かったワタシは、あのオトコのクチから語られる様々な教訓めいた言葉には「きっとなんらかの意味があるのだろう」と思い、幼いなりにその意図や真意といったものを理解しようと努めたものだ
しかしながら、ある時は「鳶が鷹を産むコトだってある」と言ったオトコが、違う場面では同じ舌で「蛙の子は蛙、分をわきまえて生きろ」と言うようなロジックの破綻が頻発し、その論理的破綻についてワタシが指摘できるようになると、あのオトコが築いた家族という名の「群体」の中にいるコトがワタシには苦痛と感じられるようになった(母も弟も、クチにこそ出さなかったが同様に苦痛を感じていたのではなかろうか)
なによりあのオトコが、そのような指摘を受けるコトをもっとも不快がった
明らかに弱者であるハズのワタシに対して、「屁理屈を言うな」という言葉と、それにともなう暴力という威嚇を以って臨んだ
自分の気分を慰めたり鼓舞発揚したりするためになら、他人サマが考えた理屈を弄するクセに、その気分を害する不快な理屈やその理屈の発生源であるワタシに対しては、怒りという感情表現を以ってあたるというのが、コドモながらに片腹痛く思えた
実際、あのオトコにとってワタシは、不快な存在だったのだと思う
同様にワタシもあのオトコが不快だった
ワタシはあのオトコの思った通りに生きる人形ではない
ワタシにはワタシの考えもあれば望む生き方もあるのだ
あのオトコの望むように生きるというコトはすなわち、あのオトコのコピーに成り下がるコトと同義だ
あのオトコの思惑通りには決してなるまいと思っていた
なにより、バカ 頑迷不霊なのがイヤだった
あのオトコは、ワタシが理屈っぽかったり女々しかったりするコトを喜ばなかった
ワタシが理屈っぽいのは、あのオトコみたいになりたくなかったからだ(と同時に、ワタシ自身もあのオトコと同様の精神気質であるというコトを、こっそり自認していたからだ ワタシは、あきらかに体質として、「気分」や「雰囲気」の発揚を好む素地を先天的に有している)
ワタシが人生の中途でオカマ道に乗り換えたのは、様々な理由はあるけれども、あのオトコの最後の呪縛から解放され、自分の手に自分自身を取り戻すためでもあった
哀しい時にさえ哀しいと言わず、「へっ、どうってコトないね」と強がる姿勢を示し続けるコトで失ってきた多くのモノを、もう一度自分の手に取り戻すためだった
「オトコは強くたくましくあらねばならない」という、あのオトコのお仕着せによって構築された既存の自己像を全て破壊し尽くし、一面焼け野原となったその上にもう一度、自分の五感からの刺激だけを頼りにして自己を再構築するためだった
きちんと自分の五感で感じたことを言葉にし、その言葉を土台にして層々と考えを組み上げ、システマティックに機能するモノを構築する… それはなにもメカニカルな機構を組み上げるコトだけを指すわけではない
ワタシには「この世をいかに生きるか」という行為それ自体にも、「一貫性」や「方針・戦略」、「仮説をたて実験し立証する」というコトが必要だった
アンチあのオトコであるためには、それらは必須の条件だった
生きるというコトは、実験的かつ実証的であらねばならないと思っていた
自らの仮説を証明するためになら、臆するコトなく己が身を実験に捧げねばならないと思っていた
あのオトコは、他人が考えた自分にとって耳ざわりの良いコトバを、都合の良いときに都合の良いように弄して、自己を理論武装するのに用いただけだ
否、論理的に破綻している以上、理論武装にすらなっていなかった
自らの気分を助長・鼓舞するためだけの「ツールとしてのコトバ」なのであって、不快源に対して威嚇攻撃できれば何でも良かったのだろう
アタマの悪いヤツのクチ喧嘩みたいなモノで、見るにも聞くにも耐えない愚劣な様だった
あんな、ムシのように愚かないきものと同種の存在であってはならない
ヒトは感情の生物…それはワタシにもあてはまる、生物としての事実だ
ワタシにも快・不快があるし、それに基づいた感情を常に抱いて生きている
ワタシを含めたヒトという生物は、多くの場合、感情を根源的な要因として行動する
しかしながらヒトがムシとちがうのは、不快の源に対しての処理の仕方だ
ワタシたちヒトや、ムシよりは多少進化した生物は「感情を制御するためのなにか」を備えている
群れなす生物を種として存続させるための「掟」かもしれないし、ヒトにおける「理性」や「言葉」かもしれないし、より体系だった「法律」というものかもしれない
不快源に対して攻撃か忌避しかありえないムシというヤツは、結果的に不快源に対して自らの生死を以って臨むしかない
それが証拠にあのオトコは、自分の気に入らない言動をワタシがとると、必ずといっていいほどにこう言っておめきを上げ暴れ狂ったものだ
いわく「おまえを殺してオレも死ぬーっ!」
失笑するしかあるまい
ワタシたちが有しているはずの「理性」とか「言葉」というモノは、不快源に対したときにこそ発動するべきもののハズだ
理性とか言葉というモノは、対象を攻撃するためのキバではない
理性とか言葉というモノは、対象を威嚇したりキズつけたり殺したりするためのものではない
理性とか言葉というモノは、対象と情報を授受しあい、対象と折り合いをつけたり、より良い関係を構築するためのツールだ
異質なモノ・怖いモノ・不安なモノといった、自らにとって不快な存在と対峙した時、どんなコトよりも優先的に理性の発動がなされるように、ワタシたちヒトは自らを陶冶してゆかねばならない
そういう「感情の制御機能」を備えるコトで、われわれはムシよりはめんどくさいケド、ムシよりは多少高級な生き方を営むコトができるのだ
ムシに堕するコトを避けるためにはそうあらねばならないし、それを拒んだ時点で、ワタシたちはムシと同類の存在となる
ヒトとして生を享けた以上、ワタシはヒトとしてありたい
だからワタシはバカ 頑迷不霊なヒトとムシがだいきらいだ(なんだょ、けっきょく気分じゃんw)
おあとがよろしいようで…♪
コメント
>この記事を読むみなさまへ
この記事の元のタイトルは「バカに語るべき言葉はない」という、かなり挑発的なタイトルでした
「おまえ、そんなにかしこいんかい?」という大変ごもっともなご指摘を受けまして、現タイトルに変更となりました
また記事中の末あたり、「だからワタシはバカがだいきらいだ」も、同様の意図から「だからワタシは頑迷不霊なヒトがだいきらいだ」に改まっております
頑迷不霊とは、「無知のくせにかたくなで、道理を説いても受け入れようとしないコト」だそうです
そうゆう、柔軟性を欠いたバカがキライだ、というコトを表現したかったのですが、筆者の筆が拙く多くの読者のみなさまに不愉快な発言となりましたコトをここに深く陳謝いたします
ただの「バカ」がきらいという趣旨ではなかったという点をお含みおきの上、閲覧いただき、ご意見・ご批判・ご忠告・ご贈答などいただければ幸いです
長らくのご清聴、まことにありがとうございましたw
自分の考えを人に伝える野は、本当に難しいなぁ。それは全ての人間関係に言える訳だけど。ただ、「発言」したいだけではなく、その自分の発言が自身に対して何らかの癒し効果を期待して発する場合は、その対象だけでなく、関係ない人々も傷つけるから、お互いに気をつけよう。お互いにね。
>ビバ☆メヒコさま
おろ? ようやく絡んできてくれましたね
ビバ☆メヒコさまあたりなら、速攻でツッコミ入れてくると思った記事なんだケドなぁw
たしかに、実際の痛い体験から語られる御忠告は重みが違いますね
そのお言葉、たしかに胸に刻みました
この記事、最後の段がなければただの賢しらな、独善的私論でしかありません
どの段を取ってみても、科学的な論拠や傍証が語られているわけでもなくて、言ってみればヒトラーの演説のように無意味でヒステリックなだけの、毒をはらんだアジビラみたいなモノです
識者はその点、ちゃんと理解した上でバカなコトをいかにも理屈っぽくしゃべってるなぁって笑ってくれるワケですけど、やっぱり不安になっちゃったあたしは、最後の段を加えて、誰もが「この記事のロジック自体が破綻してるじゃん」ってツッコミ入れられるようにしたのでした
だいたいスキ・キライを言ってる時点でムシとおんなじ程度なワケで、「なんだょ、親父がいまでもキライだけど、内心はけっこうスキだって言いたいだけの精神的未熟児だろ」ってゆうのがオチになってるってゆうのを自分で説明してるのもなさけないですねw
こうゆうのの原型みたいな動画を記事末に加えておきますね
80年代中期の、ばかばかしくて浮薄な雰囲気が満点ですw
梵我一如
数日前から、ペルーのマチュピチュで、豪雨のために邦人70名以上が取り残されているという報道が流れている
ムシどもとのつきあいかた
例えば、自宅の庭の端っこ辺りにスズメバチの巣ができた、とする