記憶ってのは、名詞じゃなくて形容詞で覚えておくものょ

相方が韓流ドラマにハマってずいぶん経つ

いまは「プラハの恋人」っていうのを堪能中だ

晩ごはん食べて、なんにも面白い番組もないものだから、相方がそのDVDを見始めた

何の気なく横目でチラチラ見てたんだケド、ふと気になって「プラハってドコだっけ?」と聞いてみた

相方も判然としなくて「チェコじゃない?」と返す

ワタシもなんとなくそれは分かってたから「チェコってどの辺かな?」と続けた

イメージではオーストリアとかポーランドとかの近くにそんな名前の国があったような気がする

でも、ドコかと問われたらちっとも分からない

それ以前に、オーストリアやポーランドを地図上で指差せない

相方も答えられないので仕方なくネットで検索、Wikiで解決

「あぁ、ドイツの東でスロバキアの西ね チェコの首都がプラハだわ」って、納得した気になる

で、細かい解説を読んでみる

でも全然イメージが湧かない

ドコを読んでも「ふーん、そうなんだ…」という知識の集積だ

そして、それらを読むコトによっていくぶん増えた知識のおかげで、ワタシはチェコとプラハについて少し分かったような気持ちになる

こうやって暗記した断片的な名詞のかたまりと、ソレが指し示す名前とをリンクさせることで、ワタシは自分の脳みその中にあるヒトやモノやコトをカテゴライズし、理解したような気になっている

他のヒトたちはどうやっているんだろう?

たとえば「鳥取県について何か教えて」なんて聞かれた時、ワタシは「砂丘と防砂林と梨と大栄町(市町村統合により2005年10月、消滅)だよ」と、自信満々に答える

でも、実際の鳥取県っていうのは、決して「砂丘と防砂林と梨と大栄町(市町村統合により2005年10月、消滅)」だけで構成されているわけではない

そう分かっていながら、対象となるヒト・モノ・コトの本質へ斬り込んでいくコトもせずに、あいも変わらず「いくつかの名詞群」とその名前のリンク付けをして、それが完了すると「あぁ、理解した」と安心する癖がついている

これは暗記という学習訓練の大きな弊害だ(暗記も反復訓練も大事な学習方法だし、その効能も認めるケド)

中学の頃、「北海道の産物は?」…「タラサンマイカコンブ」って節をつけて覚えさせられた(宮城県だったかも…w)

いまでもその節まで覚えている(声にだして読んでみ 結構リズミカルで心地いいょ)

でもワタシは、スーパーやお魚屋さんに行っても、ためらいなく「これこそがタラだょ」と、指差すコトには自信がない(サンマはかろうじて^^;)

それ以外の知識も、大なり小なり似たようなカンジで脳みその中に納めてきた

つまりワタシの脳みその中にある知識は、多くの場合、ワタシの五感を経ることもなく堆積させてきたモノなのだ

そうするコトが「知る」というコトだと、勘違いしたまま生きてきた証だ

ヒト一人が一生かかって体験できるコトはあまりにも限られていて、それ故にワタシたちは、誰かが見聞きしたコトを文字や音声や絵や写真や動画みたいなメディアのチカラを借りるコトで、あたかもソレを体験した気になる

「メディアを通じて豊かな人格を形成する」などと言ったりする

読書礼賛者にこの傾向が強いと思うのは、コドモの頃ワタシに「本を読むコトのすばらしさ」とやらを、さかしらに、かつ熱心に弁じたてた教員どもへの怨嗟からだろうか(何年か前、「読書の効能について高校生たちに2000字程度で語れ」とかいう業務依頼に応じて書いた記事を最後にくっつけといたから、良かったらそっちも読んでみてね ガッチガチに硬くて読みにくいケド…)

でもソレって、結局ワタシみたいな似非インテリみたいのを量産しているだけなんじゃないかな

知識も記憶もおんなじように脳みその中に格納されたモノだけど、知識と記憶とを混同しちゃダメだと思うんです

知識っていうのは、名詞と名詞とのリンクで構成された「思考を補助するための断片的材料」みたいなモノ

対して記憶とは、「ある体験を通じて、あるヒトが個人的にもった所感」みたいなモノ・・・ つまり「そのヒトがそのヒトであることの証左」みたいなモノ

実体験を通して体感した生老病死喜怒哀楽は、しょっぱかったり、まぶしかったり、くすぐったかったり、キナ臭かったり、おどろおどろしかったりするでしょ

そういうステキな形容詞を、どれだけたくさん対象に結び付けているか… が、「知っている」というコトの本質なんじゃないかな

そして、そのように紡ぎだされた形容詞はそのヒトだけに通用する極々個人的なモノだから、ソレゆえに「そのヒトであることの証左」になりうるんです

そうやって脳内に形成された数々の「記憶」は互いにリンクしあい、影響しあいます

それら記憶の総和が、ポジティブな色味をしているかネガティブな色味をしているか… が、そのヒトの世界観やひととなりを形成していくのでしょう

そのヒトなりの「~を知っている」を産みだすというコトなのでしょう

ある対象に関して自分なりの形容詞を持っていないのならば、いさぎよく「ソレは知らない」と言うべきなのでしょう

自らの肉体とココロとを生贄…じゃなくて材料に用いた「個人的に」壮大なる実験主義…というヤツにこの身を投じる気概を、生意気盛りの10代初めの頃のワタシは確かに持っていました

でも、いつの間にかそういう気概を忘れちゃってるんだなぁ

甘いも辛いも酸っぱいも、ぜんぶこの身とココロで味わって、そして最期は「あぁ、おいしかった」という形容詞の絶叫でワタシは結びたい

いま?

いまはねぇ…「ひたすらに苦くて、もうイヤってカンジ」っすね(号泣)

<遠藤賢司:夢よ叫べ 2022年11月追加>

付録:読書の効能とそのすばらしさについて語らされた業務依頼↓

「蟷螂の斧」

冒頭述べておかねばならないこととして、私はけっして読書礼賛者などではないという致命的事実を打ち明けねばならない。

形而上の事柄よりも、形而下の事象にこそ気分的高揚を多く感じるという、文明社会に身を置く者としては何事かが大きく欠落してしまった気質のためか、往時より礼賛者諸氏からは「謂れ有る蔑視」を殊の外多く賜ったものである。

しかしながら、覆す術とてない正論であるこの種の礼賛の声に対して、被差別者の振るうことができる蟷螂の斧といえば、青臭い印象の拭えない稚拙な唯物論と経験主義でしかなかったし、それ故に、容色の衰えげに甚だしき中年に至っても、礼賛者に対する積年の呪詛はかえって居直るが如く身の底に燻り続け、今もなお心底に黒々と身悶えたままなのである。

かような体たらくの者が読書の効能についてうそぶくというのも、教員の資質や信頼性が兎角云々される昨今、教育者への拭い難い不信を招来しかねないので、以降は私個人にその全責任が還元されるべき「痴人の愚痴」として述べることとする。

全体、読書礼賛者という連中の、恥ずかし気もないあの声高な「正論」連呼の姿勢というのは、どういった心根から生ずるものなのであろうか。

正論は、異論を差し挟む余地がないからこそ正論足り得るのであろう。

しかしながら当方がここで述べたいのは、正論に対する異なのではなく、精密な弁証をなす事なく正論を礼賛できる人々の、その「無邪気なほどに直実な」心胆に対するささやかな皮肉である。

そも読書の目的・効能とは何ぞや。

目的は知識の吸収拡大に有り、効能は時間と空間とに制約を受け続ける有限の人生経験を補填・伸張するに有りと言う。

が、種々雑多なメディアが氾濫・進化する昨今、活字媒体の頽勢は目を覆うばかりであり、前述の目的・効能は、読書においてのみその独自性を保ち得るものではなくなってしまった。

むしろ他媒体に駆逐・置換されうる性質の事柄となったのではないか。

他媒体と比して、現在においてなお読書がその独自性を示す事が可能なのは、抽象的・論理的思考訓練を常に読者に強いる点である。

感情や気分といった情動と異なり、思考は常に言語の裏打ちを必要とする行為だからである。

同時にその訓練過程において、自らが経験し得ない他者の体験に思いを馳せる事すなはち他者をイメージする事を必要とする点も挙げられよう。

これは、他者が体験する生老病死喜怒哀楽に共感する慈悲心を自己の内に育む事に他ならない。

優しさを育む事に他ならない。

しかしながらこういった優れた独自性を是認した上で、それでも読書を「弱者の逃避的快楽」に貶めないために更に言うならば、「読者が共感をした『他者の経験』とは、あくまでも他者の経験でしかなく、であるが故に、己自身の経験に拠らずしてその共感を安易に語るべきではない」という、至極当たり前の一点を常に肝に銘じて読者は訓練に励まねばならぬ。

経験とは、経験者本人にのみ帰属する「極めて個人的な事柄」であるという事を、殊に読書礼賛者は自覚するべきではないか。

とどのつまり、人は一人なのであるから。

いくら形而上の思考力を身につけ、他者の経験に共感しようとも、それを糧として「己が生涯を如何に堪能し、己が生涯のケリを如何につけるべきか」という勇気と覚悟とをその心胆に練り上げられなくては、訓練の結果として手に入れた論理的・抽象的思考力も優しさも想像力も、所詮は二流の、唾棄すべきものと成り果てるのではあるまいか。

読書礼賛者には、読書する事の先にある「実存的在りよう」という点にこそなお一層の力点を置いて礼賛を継続される事を願って止まない。

<閃電手・蘇昱彰老師の螳螂拳>

コメント

  1. ビバ☆メヒコ より:

     「蟷螂の斧」。楽しく読ませてもらいました。読書礼賛者ちゅうのは、社会的に認知された「オタク」であって、自分の思想や知識の中に引きこもる存在でしかないと思う。大切なのは、読書のその先にある『突き抜けた部分』であって、読書情報のみで思考停止するのは、HDに情報をため込んでいるのと同じですな。そう言う点では君の論旨は筋が通っている。
     が、人は空想出来るって言う特技があり、読書そのものが楽しみであるという現実もある。思い出して欲しい、「もし闘わば」。あんな生き方は出来ないが、彼の一途な姿に感涙し多少ならぬ影響を受けた日々のことを。
     読書礼賛者と距離を置いた様な作文であるが、その文章が多大に文学作品の影響を受けているという事実に君は気づいているだろう?文体は深く読書をした人間のみが獲得出来る。それを自嘲しつつ、蟷螂の斧を書いていた君の姿が目に浮かぶ。
     経験は大切だが、デューイの主張した経験主義はある意味過去のものだ。個々まで情報化社会が入り組んで発達を遂げると、全て経験するのは無理だし、経験したとしてもそれはある側面でしかない。

  2. すずね より:

    >ビバ☆メヒコさま
    予想通りのレスがついてとってもうれしいです
    ファミリーテニスで、ラリーやってる時みたいなシンクロ感ですょ
    ホントはこの作文は「本よみに与ふる書」ってタイトルにしようかと思ってたんですケド、元ネタのほうを未読だったものですから…
    あれの冒頭のちょこっとだけを高校の頃にかじっただけなんですケド、皮肉が利いてる上にロジカルで、当時のワタシの心境にいいかんじで馴染んだ覚えがあります
    自分の死すら目をそらさずに見据えているような、如何にもリアリストな子規らしい感じがスキです
    おっしゃる通り、膨大な情報がめまぐるしく飛び交う現代において、経験主義は過去の遺物です
    ただ、ときどき思うんです
    いまワタシから「知識」を引いたら、どれほど肉感を伴った「記憶」が残っているのかな、ってね…
    一生の半分くらいは生きたであろう今、あとどれくらい肉感を伴った生々しい「記憶」を手に入れられるのだろうかと…
    お試し期間だからこそ、この世界をちゃんと自分の舌で味わい、自分の形容詞をちゃんと刻まねば、ってね
    実存的でしょ?^^

  3. ビバ☆メヒコ より:

     知識を引いた肉感を伴う記憶。考えさせられるよね。最近、スキルアップを伴う今後の趣味を持とうと考えたりしています。釣りとか、農業とか。今までの自分の趣味は、内向的すぎたかなと。それに加えて、何か「出来る」事を増やしたいなって。
     年を取ったのかな。そう言う意味で、君のカミングアウトちゅうか、原点復帰は凄く分かるな。

  4. ナツ より:

    一人で家出したんだけど助けてほしいです。もう親には頼れない…super-love.smile@docomo.ne.jp

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