きさらぎ すずね

風の強い凍てつく夜

いつかの夏に海辺で買った風鈴が、不愉快なほどに涼しい音を奏でる

如月の深夜に響く風鈴の音

それはあまりに場違いで、ソコにあるべきではないものの様に感ぜられた

「場違いなもの」

「本来ソコにいるべきではないもの」

それが如月鈴音という名前の意味

10歳を過ぎたばかりの頃… そんなコトばかりを考えていた頃に創り出した名前

かわいらしい響きの名前に込めらた皮肉な意味

少女少年の名前として、ペンネームとして、ハンドルネームとして一番長い付き合いの名前

いい大人になったいま、あらためて皮肉な名前だと実感する

ワタシがワタシらしくあろうとして、結果キズつけてしまったヒトたち

ワタシがいつわりのワタシのままでいれば、キズつかなかったであろうヒトたち

そしていまさら、至極あたりまえのコトに気付く

「あぁ、ワタシはコドモの頃から、自分のコトがちゃんとわかっていたんだ」と

「誰かと一緒にいたかったら、ワタシはワタシであってはいけなかったのだと」と

だからワタシは虚構のワタシを創り上げた

誰かと一緒にいてもいい自分になるために、ワタシは虚構の自己像をココロの内に創り上げた

実在するはずのない虚構のイメージに近付こうと、十代の初めからずっと、ひたすらにあがいた

泣き虫で寂しがりのワタシが描いた虚構であるが故に、虚構の自己像は強くなければならなかった

強く、ひたすら強くと願った

そうすれば自分は、ヒトと一緒にいてもいい自分になれるのだと信じた

ヒトとは本来孤独な存在なのだから、孤独に耐えられないのは弱いコトだとかたくなに信じた

理解者を求めるコトは孤独を恐れる弱者のするコトだと自分に言い聞かせた

自分の内実を吐露するコトは理解者を求めるコトだから、強くなるためにクチを閉ざそうと試みた

十代の初めから二十年以上も、そうやって私自身をむりやり虚構の鋳型に押し込むコトをした

ホントは誰かと一緒にいないと寂しくて仕方ないくせに、その素直な感覚を拒絶して、自身の心中に築き上げた虚構の自己像に自身を似せようと必死にあがいた

やがていつしか、自分は本当の自分を封印しているのだという記憶すら忘れ、一人でいることの痛みを「感覚的に麻痺させる」術を覚えた

麻痺しているだけで痛みを克服したわけでもないのに、それで強くなったような気になっていた

封印した記憶すら忘れ去り、心の痛覚を麻痺させたその結果、「他者の弱さを痛罵し、そういう弱い人々を決して許容することのないカミソリの様な切れ味の人格」を私は研ぎ上げた

弱いままでいるコトに漫然と甘んじ、安穏と生きているだけのヒトを、憎み嫌悪する者となった

「誰かと一緒にいてもいい自分になる」ために創り上げた自己像は、「誰かと一緒にいるコトに安んじている自分を許容しない」という本末転倒を招来した

誰かのコトをココロから愛しいと想うことを知らずにいた時までは、それでもまだ、なんとかなった

ヒトとの距離を接近しすぎないようにコントロールして、他人に深入りさえしなければ、さほどヒトをキズつけることもなく、自分もまたキズつかずに済んだから

「誰からも愛されず、誰も愛さず」と、ココロに刻んだ思春期の頃の銘を、30半ば近くまで引きずって実践していた

周囲もワタシのことを「そういうヒトなんだ」と認識してくれてからは、生きるのもさほどの苦ではない気分だった

親も家族も友人も知人も、そして自分自身でさえも、「ワタシとはこういうヒトなのだ」と思っていた

「こういうヒトなのだ」と思って安心していられれば、多少の禍福が時々に訪れることがあっても、それはそれで「ワタシという存在」が誰かの心を波立たせたりはしないものだ

誰もが桃源郷にいることができた幸福な頃だった

あるとき、仮想の世界で、ほんの気まぐれに魔法少女をやってしまった

心地良かった

窮屈な補正下着を脱いで、裸のココロのままくつろいでいるカンジは心地良かった

快感は常習化し、やがて自分ですら忘れきっていた「封印した本当のココロ」の存在というモノを、思い出してしまった

誰かに想いを寄せたり、もじもじして戸惑ったり、言いたいコトがうまく言えなくて悶々としたり、想い人の帰りをずっとひとところで待ち続けたり、お屋敷の屋根の上で二人ならんで月を眺めたり

ぜんぶワタシが「誰かと一緒にいてもいい自分になるために」切り捨ててきたコトだった

ワタシが一番キレイに輝くハズだった時に、やらずに切り捨ててきたコトばかりだった

ワタシがそれまで築いてきた自己像は、どれもこれもすべてが「虚構」だったのだと痛感した

虚構を何十年も続けてきた自分のこれまでが、あまりに虚しいもののように感じられた

これから先の何十年か、死ぬまでこの虚構を続けていくのだろうかと、空恐ろしくなった

死ぬ間際、自分のこれまでが虚構だけでできあがっていたのだと、悔恨しながら逝くのは、あまりに忍びなかった

片想いの恋のときは、まだそれでも救いがあった

誰もキズつけずに済んだから

自分だけが哀しんでいればよかったから

誰かから愛されるコトを知ってから、「本当のココロ」と「虚構の自己像」との矛盾にココロが耐えられなくなった

一度は愛され、自分も心底愛したヒトから放逐された時、ワタシのココロはとうとう発狂した

30年近くにもわたって営々と構築された「虚構の自己像」は、強さを標榜して構築されていたわりに、あまりにも脆く瓦解してしまった

自分とは何者であるかと、今更ながらわからなくなってしまった

親も家族も周囲も、それまでのワタシしか知らないヒトたちは皆、そんなワタシの有様に戸惑い、時々励まし、叱責し、それでもワタシがかつてのワタシに戻るコトはもう決してないのだと悟ると、やがて失望して去っていった

「本当のココロ」のまま生きようとするコトは、10才の頃のワタシが予感していたとおり、ヒトの不興を買った

本当のココロのままで生きていくコトは、誰かと一緒にいてはいけないコトだった

と同時に、心底から愛してしまったあの方と一緒にいるためには、リアルなワタシをお伝えしてはいけないコトだった

あの方にとっては、如月鈴音こそが現実であって、ワタシこそが虚構だったのだから

結果、ワタシは現実の世界でも仮想の世界でも、行くアテを失ってしまった

この世界のドコにも、ワタシのいるべき場所も帰るべき場所もなくなってしまった

如月鈴音は、やはりその名のとおり「本来ソコにいるべきではない者」だった

このブログのアドレスは suzune-the-lunarian

lunarian とは「(あるハズのない)月世界に住まう者」という意味

転じて「おめでたいヒト」「夢想家・狂人」の揶揄にも用いられる

本来この世界にいるべきではない、おめでたい狂人…すずね

初めからわかっていたコトだ

なにをいまさら、だ

<中村中:リンゴ売り>

コメント

  1. ビバ☆メヒコ より:

     『白鳥は悲しからずや海の青空の青にも染まずただよふ』を思い出したわ。
     40歳回ってからの自己実現は、周囲との関係で色々と破綻する部分も多いとは思うが、本来は思春期でしているべき懊悩を今遅ればせながらしているだけで、異常ではないと思うぞ。
     自己実現出来ずに死んでいく者の方が多い中、如月鈴音という存在に、色々なリスクを背負ってでも到達出来たことは、人生トータルとして、良いことではないのかな?非常に無責任な発言だけどね。
     存在してはいけない存在はないというのが俺の哲学です。人から憎まれることで意味をなしている存在もあれば、テロを起こすことで存在を証明する者もある。
     人生は、瞬間最大風速でどのレベルまで到達出来るかだと思う。その意味では、貴様は高い所で俺を俯瞰している。
     俺は俺の心から解放されていない。
     お互いにガンバろうや。兄弟。

  2. 千葉っぷ より:

    前言発言主のおっちゃん同様(笑)、
    「存在してはいけない」・・・
    とのたまう貴君のところにコメントが
    書き綴られている事実はどう解釈すれば良い?
    少なくとも、ここに発言を記する輩は、
    如月鈴音という「存在を認めている!」
    と小生は思う。
    無論、今の貴君の姿は当時の姿と比して
    相対する存在になっているのだろう。
    しかし・・・・だ。
    貴君との再会は楽しみでもある。
    「存在してはいけない存在」というのは
    はじめから『無』でしかない。
    貴君は小生の記憶に、すでに「存在する」
    わけであって、これからも“存在し続ける”
    「存在」である。
    言いたいことは分かるか???
    すでに小生や前言発言者のなかに
    「存在している貴君は、無ではない」
    ということだ。
    ずいぶんと、立派なお説教(?)みたいな
    台詞になってなってしまったが、
    その点は貴君も忘れんで欲しいね。
    友はいないと思うな。
    存在を否定することは、貴君の存在を
    認めている小生を否定することになる。
    友は、かならず貴君を見ている。

  3. 愛憎絵巻…ヒトとキカイと技術と愛

    ワタシの弟は、肢体不自由児だった

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